2011年9月30日金曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ_3 ,Villa Hadriana,Piazza d'Oro,Tivoli

Piazza d'Oro 黄金広場北側

Piazza d'Oro黄金広場の南側を望む

Piazza d'Oro 黄金広場南端の神殿
娘と奥さんと僕は、ヴィラ・アドリアーナの黄金広場にやって来ました。
この広場は中央の宮殿側から南東方向に少し歩いたところにあります。
この広場がなぜ黄金広場と呼ばれているのか、僕は知りません。たぶん、皇帝にとってはラスベガスのような娯楽の殿堂だったのでしょう。
広場には人工の池と噴水、劇場などがあったようです。夜な夜なこの劇場で演劇を上演し、これを見ながら豪勢な食事とお酒を皇帝はたらふくいただいたのでしょう。
Piazza d'Oro 地下通路
この広場は60m×50mほどの大きさがあります。
中心部には約5mの幅の水路が広場の南北を貫いています。
広場の地下には通路があるのですが、地上にぽっかり開いた穴から階段でトンネルみたいな地下通路に降りていく事ができるのです。
娘はよろこんで地下につながる階段を下りていきました。
地下ですが暗闇の通路ではありません。地下通路の天井には所々に穴があり、そこから日が差し込んでかなり明るい感じがします。
この地下部分は何のために造られたのでしょうか。広場の中央部分を囲むように、ぐるりと通路があります、迷路になっていればおもしろいのに。
洞窟を恋しく思うのは僕だけではありません。そこはふしぎな安心感があるのです。

2011年9月27日火曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ配置図、Trama piano,Villa Hadriana,

 Trama piano,Villa Hadriana,
ヴィラ・アドリアーナの配置図です。
これは宮殿周りの施設の一部で敷地全体ではありません。
7番のところがポイキレ(Pecire)です、ギリシャの彩色回廊(僕は見た事がありません)「ストア・ポイキレ」をまねて造られたそうです。池を中心に四方に高さ約9mの壁と、現在ではありませんが壁の内側に大理石の列柱があったそうです。(柱の基礎部分は少し残っています)
中心の池はスイミングプールだったとか、池の大きさは100m×25m程です。
僕たち家族が訪れた時には、この池はアヒルのすみかでした。
宮殿、神殿、劇場、図書館、病院、大浴場などが、からみあいながら自在に展開している美しい配置です。

2011年9月22日木曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ_2、Villa Hadriana,Edificio con peschiera,Tivoli

Villa Hadriana,Edificio con peschiera 養魚池
娘と奥さんと僕はヴィラ・アドリアーナのポイキレから、少し歩いて養魚池(Edificio con peschiera)といわれている場所にやって来ました。
養魚池とはいいますが、この池で魚を養殖していたのかは不明です。
ティヴォリは水源の豊かな場所ですが、「食用の魚をこの池で育てた」あやしいにおいがします。
池の隅には大理石のコリント式列柱が3本と、こわれた列柱やその基壇部分がありました。池を囲んで回廊式の屋根と列柱があったようです。
なぜか知りませんが、僕は市ヶ谷駅の脇にある釣り堀屋さんを思い出しました。

2011年9月21日水曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ_1、Villa Hadriana,Pecire,Tivoli

Villa Hadriana,, Pecire,Tivoli
娘と奥さんと僕はローマから東に28㎞、バスに揺られて50分ほどでティヴォリのヴィラ・アドリアーナ(Villa Hadriana)に到着。
田舎の緑豊かな小高い丘にその遺跡はありました。
バス停から歩いて5分程のところに入場券売り場があります。入場料は一人4,000リラ(1990年)もちろんベビーカーの娘はただです。
入り口付近の建物内にはヴィラ・アドリアーナの全体模型が展示してあります。
ヴィラとはいえその規模は18㎢におよぶ壮大なものです。ローマ皇帝ハドリアヌスが117年から137年頃に建設したものです。
Villa Hadriana,Pecire, Tivoli
最初にあらわれた遺跡はポイキレ(Pecire)という巨大な壁。この壁にぽっかり口を開けた門のようなところから入ります。
ポイキレはギリシャ風の回廊形式の建造物です。この大きなレンガ造の壁の内側には大理石の列柱が並んでいたそうです。
僕たち家族は池のそばにある木陰のベンチで早速お昼ご飯を食べます。ローマのパン屋さんで買ってきたパンは特別おいしいのです。
腹ごしらえができたので僕たちは遺跡に出発。
Villa Hadriana,Pecire, Tivoli
ポイキレの中央には大きな池があります。池には3匹のアヒルがいるのですが、こいつらが池を通りがかった子供やおばさんに襲いかかります。ガアガアとけたたましく泣き叫び威嚇しては人間を追い払うのです。
僕が小さい頃近所で番犬代わりにアヒルをかっていた家がありました、アヒルは縄張り意識が強く、兇暴なのです。

2011年9月14日水曜日

ローマからティボリ、Da Roma a Tivoli

ティボリ行きバス乗車券
娘と奥さんと僕は、ローマからバスに乗りティボリに向かいます。
ティボリにあるヴィラ・アドリアーナ(Villa Hadriana)でのんびりするためです。
僕たち家族はローマ・バロックの毒気にあたり、いささか疲れてしまいました。
このあたりで都市を離れて、緑豊かな田舎の風景が恋しくなったのです。
朝から気持ちのいい天気、青い空にはわずかな雲があるばかり。風が吹きませんから雨が降る事は無いでしょう。
A.Co.TRA.Lとは、1990年当時の名称で現在はCOTRALと呼ばれています。
COTRALはローマ市以外のラツィオ州の交通運営会社です。
1990年4月当時、ティボリ行きのバス乗り場はテルミニ駅前からほんの少し歩いたチンクエチェント広場(Piazza del Cinquecento)から発着していました。
バスでローマからティボリまでの運賃は一人1,700リラ(1990年)約290円ほどですから安いと思います、それに3歳半の娘は無料、ベビーカーに乗っていたので、なおさらです。

2011年9月13日火曜日

ローマ、ナヴォーナ広場、Piazza Navona,Roma

Piazza Navona,Roma
娘と奥さんと僕は、ナヴォーナ広場にやって来ました。
広場の中央には四大河の噴水(Fontana del Quattro Fiumi)が大きなオベリスクを抱え込むようにあります。
広場には三つの噴水がありますが、この中央の噴水が一番巨大。
この噴水はベルニーニさんの作品です。四大河とは、ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川だそうで、それぞれ擬人化した彫像がオベリスクの周りを囲んでいます。
なぜこの四大河が選ばれたのでしょう、僕は知りません。僕なら、ラプラタ川を入れるならアマゾン川を選びそうですが。
Fontana del Quattro Fiumi
1990年4月の暖かな日です。娘は水遊びが大好き、さっそく噴水にかけよりました。
春の日差しが反射して水盤はまぶしいくきれいです。
広場には植物がないのが残念です、どこまでも人工的な広場。

2011年9月7日水曜日

ヴァチカン美術館のミケランジェロ、Michelangelo in the Vatican

ヴァチカン美術館のミケランジェロさんのカタログ
娘と奥さんと僕は、ヴァチカン美術館を駆け足で通り過ぎました。ほとんどの時間、娘と美術館の中庭で遊んでいましたから、今でも何を見たのやら、ほとんど記憶に無いのです。ヴァチカン美術館でミケランジェロさんの作品カタログを買いました。
Cappella Sistina
システィーナ礼拝堂は1990年4月当時、修復作業中で僕たち家族は、全体を見る事はできませんでした。礼拝堂のフレスコ画は旧約聖書の「創世記」で、ミケランジェロさんが1512年に完成させたもの、ほとんどミケランジェロさん一人で描きあげたそうです。
Pieta
ミケランジェロさん作のピエタと呼ばれる彫刻、ピエタ(Pieta)とは慈悲ぶかい事を意味しています、死せるイエス・キリストを抱きかかえる聖母マリアの姿です。
The Fall,detail,Sistine Chapel
システィーナ礼拝堂のフレスコ画の一部です。旧約聖書の「創世記」で、アダムとイブでしょうか。
奥さんも僕も、礼拝堂のどこにこの絵があったのか、まったく覚えていません。

2011年9月6日火曜日

ヴァチカン美術館のカフェテリア、Caffetteria al Musei Vaticani

Caffetteria al Musei Vaticani
ヴァチカン美術館の中庭でたくさん遊んだ娘は、こんどは「おなかがすいた」。
娘と奥さんと僕は、美術館の中にあるカフェテリアで、お昼を食べました。
ハンバーガー、フライドチキン、オレンジジュースとなんだかマクドナルドみたい。
奥さんも僕もできれば美術館のカフェテリアで食事をとりたくはありませんでした。
まずいのです、それに値段の高いセルフサービスの食堂です。
娘はたいへんおなかがすいていたのでしょう。大きなハンバーガーを食べ、フライドチキンまでほうばっていました。

2011年9月5日月曜日

ヴァチカン美術館、Musei Vaticani

Musei Vaticani,Cortile della Pigna
Musei Vaticani
娘と奥さんと僕はヴァチカン美術館にやって来ました。
サン・ピエトロ大聖堂の楕円広場にそって、ポルタ・アンジェリカ通り(Via di Porta Angelica)を北に向かい、レオーネ通り(Via Leone Ⅳ)から左に入り、ヴァチカーノ通り(Viale Vaticano)を歩いて約10分、城壁にちいさな美術館の入口が見えてきました。
入口には入場者の長蛇の列、入場券を買うまでには30分以上かかりました。
ヴァチカン美術館の入場券
1990年4月当時、入場料は一人8,000リラ日本円で約1,350円ほど。
ヴァチカン美術館入口の二重螺旋階段はそれは美しくこの階段を見ただけで僕は大満足。
美術館なんぞまったく喜ばない3歳半の娘はここでもごきげんななめ、さてどうしよう。
「エジプト美術」も「ラファエロの間」も「地図のギャラリー」も奥さんと僕は娘を乗せたベビーカーで駆け抜けます。
気がつけばバチカン美術館の中庭(Cortile della Pigna)に出てきました。
そこには大きな松ぼっくりが鎮座しています。「Pigna」は松ぼっくりの事だそうです。
春の日差しがたくさん降りそそぐこの中庭で、しばらく娘と遊ぶ事にしました。

2011年9月4日日曜日

ローマ、スペイン階段、Piazza di Spagna,Roma

Piazza di Spagna,Roma
娘と奥さんと僕は、ピンチョの丘(Pincio)で半日遊んでから、スペイン階段にやって来ました。
ピンチョの丘から、トリニタ・デイ・モンティ通り(Viale della Trinita dei Monti)
を南東に、のろのろと歩いて10分、スペイン階段の最上部に着きました。
大きなオベリスクが、小さな広場に、どすんと建っています。
1990年4月初旬の金曜日の夕方4時過ぎ、スペイン階段にはあふれんばかりの観光客が、所狭しと階段でぼんやりしていました。
Piazza di Spagna,Roma
スペイン広場には船の噴水(Fontana della Barcaccia)があります、小さな船の噴水で、船といっても、二人用の手こぎボートぐらいのものです、1629年にベルニーニさんが作ったものです。
僕たち家族の目の前で、この噴水に投げ込まれた一人の青年がいました。娘は驚いたようですが、けんかでなく、いたずらで友達に落とされたようです。

2011年9月2日金曜日

ローマ、ピンチョの丘、Pincio.Roma

Pincio.Roma
娘と奥さんと僕は、ポポロ広場から、きつい階段を上りピンチョの丘にやって来ました。
娘は森が大好き、草花や昆虫がいればたいくつしません。
ピンチョの丘、かわいらしい名前です。なんでも4世紀ごろ、この丘を所有したPincii家の名前から来ているそうです。埼玉県に伊奈町という所があります、江戸時代に伊奈氏の屋敷があったことから、こう呼ばれるようになりました。関係ないですね、ピンチョの丘の並木道を家族3人で散歩しましたが、誰とも出会う事はありませんでした。
Pincio.Roma
ピンチョの丘から、ポポロ広場が見渡せます。サン・ピエトロ大聖堂のドームも、ここからはよく見える、見晴らしの良い気持ちのよいところです。

2011年9月1日木曜日

ローマ、ポポロ広場、Piazza del Popolo,Roma(Santa Maria in Montesanto,Santa Maria dei Miracoli)

Piazza del Popolo
娘と奥さんと僕は、ポポロ広場を散策。
この広場には、双子の教会があります。左側の教会はサンタ・マリア・イン・モンテサント教会(Santa Maria in Montesanto)右側の教会はサンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会(Santa Maria dei Miracoli)17世紀に建てられた教会です。
僕が不思議に思うのは、なぜ同じような教会を鏡にうつしたように、建てたのでしょう。
それにしても、かわいらしい双子教会、奥さんも僕もたいへん気に入りました。
Piazza del Popolo
 ポポロ広場のオベリスク、1990年4月のことですが、ぺんきであちこちいたずら書きがあり、ゴミも散乱して殺伐とた広場でした。その頃のポポロ広場は、たくさんの自動車が行き交い、駐車場としても利用されていました。
現在はきれいな広場だそうですが、 僕たち家族は、このうすぎたないポポロ広場でのんびりする気にはなれませんでした。
Piazza del Popolo