2011年5月31日火曜日

シエナの果物屋、LA FRUTTERIA di Siena

LA FRUTTERIA,Siena
娘と奥さんと僕はあてもなくシエナの路地を散策することにしました。
奥さんいわく「教会は沢山見たせいでとても素晴らしい教会を見ても、最初の感激がうすれてきたの、もったいないきがするわ」過ぎたるは及ばざるがごとし、確かに奥さんは正しい。
シエナ大聖堂につながるカピターノ通り(Via del Capitano)を南に歩くとそのままサン・ピエトロ通り(Via San Pietro)に出ます、通りを少し入ると果物屋 LA FRUTTERIA がありました。
お店の前には新鮮な果物と野菜が飾り気なく並んでいて、これは見逃して行けないとさっそくお店に入ります、果物以外にもハーブやビネガ、わからない品々が並んでいて興味津々その後しばらく店内を行ったり来たり。
十分に奥さんも僕も楽しみましたのでこのまま出るには気が引けます、奥さんと僕は実がはちきれそうでうまそうなスモモを3個買いました、スモモ3個で2,600リラ(1990年)約1個140円、高い、LA FRUTTERIA は千疋屋なみの高級果物屋でありました。

2011年5月30日月曜日

シエナのレムス,Remus di Siena

Duomo di Siena, Siena

Piazza Tolomei, Siena
シエナではオオカミの像と何度か出会いました、これは雌狼が双子のロムルス(Romulus)とレムス(Remus)に乳を飲ませている像です。
シエナの起源にレムスがかかわっています。紀元前6世紀頃のことです、ロムルスはローマ建国神話に登場するローマの建設者です。ロムルスには双子の兄弟で弟のレムスがいました、レムスは兄ロムルスによって殺されるのですが、二人の息子を残します。彼の息子セニウス・アスキウスはローマを逃れてシエナの地にたどり着き、ここに新しい国をつくったというお話です。
雌狼とロムルスとレムスの伝説は、ティベリス川の精霊が、ティベリス川を流されているロムルスとレムスの双子を川から救い出し、川岸にすむ雌狼に預けます。狼は双子に乳を飲ませて彼らを育てるのです、やがて羊飼いのファウストゥルスが双子を見つけ、彼の妻ラレンティアと彼らを引き取り育てたということです。

2011年5月27日金曜日

シエナ BAR PENINOTECA Scorpios di Siena

Via Franciosa, Siena
バール・パニーノテカ,サソリ
娘と奥さんと僕が宿にしていたCasa Del PELLEGRINOでは、宿泊だけで食事は付きません、朝食はいつも宿の近くのBAR PANINOTECA Scorpiosで食べます。
宿を出てすぐ北側に聖ドミニコ教会があり、そこからサンピエンツァ通り(Via della Sapienza)を少し入った所にバール・サソリ座(サソリ)?があります。
1990年4月のことですから、現在店があるかわかりません。店はご主人とおかみさん、息子らしい10代後半の青年がきりもりしていて、いつも親切で優しい人たちです。それにここのパニーノテカはほんとにおいしい。
最初にこの店に入った時、店のカウンターにはアルコールずけのサソリが飾ってありました。ハブ酒のようにこれを飲むのでしょうか、さすがバール・サソリ、こんなところも僕たち家族は気に入り、それから1週間程かよいました。
パニーノテカはイタリアのサンドイッチで、店でパンにはさむ具材を選び自分の好きなサンドイッチを食べる事ができます、サブウェイみたいな感じですが、パンも中身もシンプルでかつ新鮮、だんぜんBAR PANINOTECA Scorpios、そのうえこの店のカプチーノはとても美味しいのです。

2011年5月26日木曜日

シエナのマリア様,Santa Maria di Siena

シエナの路地
娘と奥さんと僕は人ごみを避けてシエナの裏道を散策、観光地だけにたくさんの人々が狭い路地を行き来してます。それでもカンポ広場から離れて、少し裏道を入れば誰もいない静かな小道を見つける事ができます。
シエナのレンガ造りの住宅の外壁には小さなほこらがあり、そこにはマリア様がたたずんでいました。パリオの祭は、マリア様と聖カタリナさんに由来する祭りだそうです。
僕が6歳の頃(昭和40年)家の前のバス停には、庚申様のほこらがあり、いつもきれいに掃除され、花が飾られていました。みじかにあった庚申さんや馬頭観音さんはいつのまにか誰も気にかけなくなりました。
シエナの家

2011年5月24日火曜日

シエナの聖カタリナ,Santa Caterina di Siena

Santa Caterina,Siena
娘と奥さんと僕は、聖カタリナ礼拝堂にやって来ました。この礼拝堂は、宿のバルコニーから、見えるほど近くにあります。
聖カタリナさんは、14世紀シエナに生まれました。十代後半からその後一生を神への祈りと瞑想という、孤独な生活をした人です。イエス・キリストが亡くなるのが32歳ですが、彼女も32歳という若さで亡くなるのです。シエナのひとたちに取っては、聖カタリナさんはとても大切な人であり、守護神でもあるのでしょう。
こんな言い伝えがあるそうです、彼女の遺体をシエナに持ち帰ろうとした人々は、途中検問が厳しい所を、聖カタリナさんの遺体を運ぶ事ができないだろうと、彼女の頭部だけをカバンにつめて通り抜けようとしたところ、警護兵に制止され、カバンの中身を調べられるのです。ところがカバンの中にはバラの花びらだけが沢山がつまっていて、ほかには何も出てきませんでした。無事シエナに着き、カバンを開けると聖カタリナさんの頭部があらわれたそうです。

2011年5月23日月曜日

シエナ大聖堂,Duomo di Siena

Duomo di Siena
娘と奥さんと僕はシエナ大聖堂(Duomo di Siena)にやってきました。
シエナで教会を訪れたのは初めて。とくにシエナ大聖堂は毎日宿から眺めていたので、すっかり行ったきになり行きそびれていたのです。
僕たち家族が一番気にいった教会前の素敵な大理石の床。白大理石の地に黒の模様がカチリときまりそれは美しい。広間のような教会の入口は陽当たりも良く気持ちがいいものですから、僕たち家族はここでひなたぼっこ。
シエナ大聖堂

シエナ大聖堂は13世紀にほぼ完成したゴシック建築。
ですがその後、14世紀はじめ頃まですこしづつ造り続けられ、いまだ未完成の部分もあるそうです。
純血のゴシック建築にロマネスク建築が少し混じった混血みたいな教会。
教会のファサードは女性的でやわらかい。
驚いたのはその内部、エジプトのファラオの棺みたいな金ぴかの縞模様。
なんだかイスラム教会みたい。
シエナ大聖堂内部

2011年5月20日金曜日

シエナの噴水と井戸、Fontana,Cisterna di Siena

Fontana Siena
娘と奥さんと僕は地図を持たずに散歩、カンポ広場から南西に春のお日様が導くとうりにひたすら歩きました、歩き疲れて休もうとすると、そこに小さなかわいい噴水がありました。
このあたりは雑木林と畑がある静かなところです、ここで休憩。
Cisterna Siena
今度は井戸を見つけました、娘が芝の階段を降りていくとそこに井戸がありました。
いつ頃のものかわかりませんが、ローマ時代後期あたりの古い井戸でしょうか。シエナの街は中心部が丘の上部にあたり、西側は緩やかに下がっています、このあたりは街の西側の外れですから低い場所になります。これは帰りが大変だ、宿までの帰り道はすべて上り坂です。
Cisterna Siena
娘と奥さんと僕はようやく宿のすぐ近くまでやって来ました。宿まで歩いて3分ぐらいの所に、聖カタリナ礼拝堂があります、ここには小さな中庭があり、その中庭に素敵な井戸があるのです。ここで少し休んでから宿に戻る事にしました。

2011年5月18日水曜日

シエナのパリオ、Palio Siena

Pratica il Palio
Pratica il Palio
それは4月上旬の穏やかな午後、娘と奥さんと僕はシエナの街をあてもなく散策していると、偶然にもパリオの練習に出会いました。
広場に集まった子供たちは旗の練習に夢中です、旗を大きく振ったり回転させたり、旗を高く空に投げ上げ落ちてくる旗をうまく受け取ったりを何度も繰り返し練習していました。その姿は真剣そのもの、誰一人ふざけたりさぼったりしていません。
パリオは毎年、7月2日と8月16日にカンポ広場で行われるお祭りで、シエナの17地区から10地区が参加する地区対抗の競馬です。
僕たちが広場で見た子供たちの旗には、アヒルの絵の紋章が描かれています、祭り本番で彼らが旗を振る姿を僕たち家族が見る事はできないでしょう。
娘と奥さんと僕はアヒル地区の健闘を祈りました。

2011年5月14日土曜日

シエナとタルコフスキー, Siena e Tarkovsky

San Galgano Chiusdino,Toscana
シエナのお土産屋さんはどの店先にも絵はがきが目立つ所に並んでいます。
僕は偶然この絵はがきを店頭で見つけ、一目でアンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキー(Andrei Arsenyeivch Tarkovsky)さんの映画「ノスタルジア」だと気づきました。
僕は店員さんにつたない英語で、「この絵はがきの教会に行きたのですが」彼女は僕に車を持っているかと聞き、「僕は車は無いんだ、だけど、どうしても行きたいんだ」彼女は、この教会はサン・ガルガノにあるけれど、シエナから西に約35㎞程の所にあるので車でないと無理だと思うわ、しかたなく僕はこの絵はがきを750リラ(1990年)で買いました。
「ノスタルジア」は1984年に有楽町で見たのですが、途中僕は寝込んでしまい、その後レンタルビデオ屋で借りて見直すのですが、また途中で寝てしまいました。
この教会がシエナ近郊にある事は映画で知っていましたが、シエナに来るまで場所が分かりませんでした。
屋根のない教会が気に入りぜひ行きたかったのです、本当に残念、建築で屋根が無いという事がこんなに素敵だとは。その上、床に雑草が生えています、沢山お日様が当たるのでしょう、僕はこんな教会が一番好きです。

2011年5月11日水曜日

シエナの風景 Paesaggio di Siena

Paesaggio di Siena
シエナの起源はわかってはいません、ローマ時代の都市が起源ということですが根拠は定かではありません。
11世紀から14世紀中期の中世ヨーロッパで最大の金融街の一つです。13世紀頃同じ金融街として栄えたフィレンツェとシエナはトスカーナ地方の覇権をめぐり熾烈な武力衝突を繰り返します。
13世紀中期にはフィレンツェを破り支配するのですが、わずか5年後にフランス王国とフィレンツェの連合軍に敗北して、トスカーナの指導権を失うのです。
それでも金融街の機能は失わず豊かなシエナの街は優れた芸術を数多く生み出していきます。
シエナが衰退したのは14世紀中期にペストの大流行に原因があるのでしょう。
僕は栗本慎一郎さんの書いた「光の都市 闇の都市」で、疫病が都市を破滅することには人口の調整を行っている面もある、そんなことをぼんやり思い出しました。
はかない美しさが僕は好きです、人間が作り出した文明は、薄い氷りの上にあるとてもはかないものである、これも誰かの言葉ですが。

2011年5月6日金曜日

シエナ、プッブリコ宮殿 Palazzo Pubblico,Siena

Torre del Mangia,Siena
Palazzo Pubblico,Siena
娘と奥さんと僕はプッブリコ宮殿にやって来ました。
この宮殿は14世紀に建造され、フィレンツェのヴェッキオ宮殿をまねて建てられたとか。イタリア中世後期には、シエナとフィレンツェは共に金融や商業で財を成した所ですから、とかく張合う事が多かったのでしょう。
プッブリコ宮殿にはマンジァの塔があります、約100m程の塔で入場料一人3,000リラ(1990年)娘と奥さんと僕は高い所には必ず上る。石の階段で500段ほどあるのですが、途中疲れていやがる娘を奥さんと僕で交代でおんぶ、だっこ、入場料を払いましたので引き返すことはできません、元は取るぞと上りましたが、暖かな4月上旬でしたからそれはきついのです。
僕は高い所が好きですが、高所恐怖でもあり、最後の鐘の所には行けません。すかすかの手すりとはしごのような階段を上ると思うと背筋に悪寒が走ります。
カンポ広場が見渡せるこの塔に上るとわかるのですが、広場は扇型でその焦点はプッブリコ宮殿の中心にあるのです、勾配も宮殿が一番低いので大雨の時が心配、1階はそのぶんずいぶん地面から上る事になります。