2011年10月28日金曜日

ヴェネツィアの地図、Mappa di Venezia

Mappa di Venazia 観光案内所でもらったヴェネツィアの地図
地図の表紙
ヴェネツィアの観光案内所は、サンタ・ルチア駅とサン・マルコ広場にあります。
娘と奥さんと僕は、初めて訪れた場所に着いたらまず観光案内所に行きます、そこで地図をもらいます。
とにかく地図をもらう事、これさえあればあとは何とかなります。
僕たち家族が泊まることができる安宿は、観光案内所のホテル・リストにはありません。どのホテルも値段が高いのです、自分の足とカンで探すしかありません。
ヴェネツィアの地図は、金魚のようなかたちをしています。僕には上から見た列車の自動連結器に見えるのですが、ボクシングのグローブで握手したようなかたち。

2011年10月25日火曜日

ヴェネツィアの宿_1,HOTEL SAN MAURIZIO,Venezia

ヴェネツィア、HOTEL SAN MAURIZIO
HOTEL SAN MAURIZIO
娘と奥さんと僕はヴェネツィアのサンタ・ルチア駅(Santa Lucia)に到着。
駅前の広場前には、小さな船が浮かぶ運河がありました。どろんとしたグレーの水面は、曇り空と同じように暗くゆるやかにたなびいています。
今夜の宿をさがしにサン・マルコ広場まで行きます。
サン・マルコ広場近くまでは水上バスのヴァポレット(Vaporetto)を使います。
ヴァポレット乗り場はサンタ・ルチア駅広場のFERROVIA S.LUCIA停留所。
停留所前で乗車券を買い(1990年一人1,800リラ)ヴァポレットに乗り込みます、船で約30分でサン・マルコ広場一つ手前の船着き場のS.MARCO.S.ZACCARIAに到着。ヴァポレットを下りて少し東に歩けばサン・マルコ広場が見えてきます。
僕たち家族がヴェネツィアに到着してから小雨が降り始めました。1990年4月初旬の少し肌寒い日です。重い荷物をかつぎ雨にぬれた娘も奥さんも寒くてかわいそう。早く宿をさがさなければ。
HOTEL SAN MAURIZIOは路地を入った小さな宿で、観光客が少ない静かなところにありました。
少し宿代が高いのですが今日はここに決めました。
宿のおばあさんは僕たち家族がチェクインする前に、娘の雨にぬれたズボンのこかんを触って臭いをかいでいます。娘がおもらししていないか確認したようです。
彼女は娘に問題無しと分かると、僕たちを部屋に案内してくれました。
部屋は床も壁も掃除がいきとどいたきれいでかわいい部屋です。奥さんも気に入り僕も一安心。
宿のおばあさんは翌朝僕たちの部屋に朝食と一緒に娘におかしとおもちゃを持ってきてくれました、その上、宿代を一日当たり20,000リラ値引きしてくれたのです。

2011年10月21日金曜日

ローマからヴェネツィアへ、Da roma a Venezia(FERROVIE DELLO STATO)

FERROVIE DELLO STATO イタリア国有鉄道
娘と奥さんと僕はローマのテルミニ駅(Roma Termini)8時50分発のヴェネツィア、サンタ・ルチア駅(Venezia Santa Lutia)行きの列車に乗り込みました。
1990年4月、空はどんよりとした雲におおわれて、今にも雨が落ちてきそうな薄暗い朝でした。
フェツロヴィーエ・デッロ・スタート(FERROVIE DELLO STATO)とはイタリア国有鉄道で、FSとよばれています。
僕たち家族は日本でユーレイユパスを買って来ましたから、このパスでほとんどのヨーロッパの鉄道は乗る事ができます。しかし、ユーレイユパスは2等列車が基本です。
僕たち家族が乗ったヴェネツィア行きの列車は全車両1等列車です。列車内の雰囲気は小田急のロマンスカーみたいで特別車かも。同じ車両にいるのは僕たち家族とビジネスマン風のおじさん一人だけ、なんだか嫌な予感がします。
ローマからヴェネツィアまで約4時間かかるのです。列車がテルミニ駅を走り出して30分程した頃に飛行機の機内食みたいな朝食がでてきました、注文してないのに。
しばらくすると、こんどは娘にオレンジジュース、奥さんと僕にコーヒー、新聞、雑誌のサービス、ますますあやしい。
ヴェネツィア到着まぎわ、僕たち家族の前に車掌さんがあらわれて「乗車券を見せて下さい」。
僕は迷わずユーレイユパスを見せます。
車掌さんは「この列車は特別列車ですからこのパスだけでは乗車できません、追加料金をいただきます」みたいな事をいうのです。
僕はイタリア語がわかりませんから、「スイー、スイー」となま返事。
すると車窓さんはおもむろに48,000リラ(当時約8,000円)の追加料金が書かれた請求書を僕に手渡します。
しかたなく支払う事になりました。
48,000リラあればヴェネツィアの安宿に1泊できるのに。

2011年10月19日水曜日

ローマ、イル・ジェズ教会、Il Gesù, Via degli Astalli, Roma

Il Gesù, Via degli Astalli, Roma
Vittoriano o Monumento a Vittorio Emanuele II
娘と奥さんと僕は、イル・ジェズ教会(Il Gesù)にやって来ました。
宿のある共和国広場から、64番のバスに乗り、ヴィトーリオ・エマヌエーレ2世記念堂(Vittoriano o Monumento a Vittorio Emanuele II)前のサン・マルコ通り(Via di San Marco)で下車。その通りを西に少し歩けば、アラコエリ通り(Via d'Aracoeli)との交差点にでます、この交差点を右に入り、少し歩くとイル・ジェズ教会が見えてきます。
15世紀に建てられたこの教会は、かつて「イエズス会」(Society of Jesus)の本部がありました。
イエズス会は16世紀にキリスト教、カトリック教会の男子修道会として組織されました。
フランシスコ・ザビエルさんはイエズス会の創設者の一人です。
イル・ジェズ教会は、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Bettista Alberti)さんの設計で、彼は15世紀初期のルネサンスの建築家です。僕たち家族は、フィレンツェで彼の設計した、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Sta Maria Novella)前の広場が恋しくなりました。
そこは、かわいらしい噴水がある広場で、のんびりできる気持ちの良い所です。

2011年10月16日日曜日

ローマ、エウル_2 .E.U.R(Esposizione Universale di Roma)

Palazzo del Congressi.E.U.R会議場
娘と奥さんと僕は、エウル(E.U.R)の街を散策。1990年4月初旬の月曜日、午前10時ごろの街には沢山の車が行きかいます。僕たち家族以外、歩道を歩く人はほとんどいません。
娘が遊ぶような公園も無く、きさくなBARも見つける事ができません。だいたい新都心と名がつく所は、どこも居心地が悪いのです。
EUR会議場はアダルベルト・リベラ(Adalberto Libera)さんの設計です、この人は1930年代のイタリア未来派の影響を受けた建築家ですが、建物は古代的。
Museo della Civolta'Romana.ローマ文明博物館
僕たち家族は、ローマ文明博物館を見学に来たのですが、残念ながら閉館。
この博物館には、古代ローマ都市のジオラマがあるのです、見たかった。

E.U.R
エウル地区はどこも車でいっぱい、散歩にはむいていません。ここは半日できりあげて
ローマ市内に戻り、ピザでも食べましょう。僕たち家族は地下鉄の駅に向かいました。

2011年10月14日金曜日

ローマ、エウル_1、E.U.R(Esposizione Universale di Roma)

Palazzo della Civilta del Lavoro roma イタリア文明館

Palazzo della Civilta del Lavoro roma

娘と奥さんと僕は地下鉄テルミニ駅からB線に乗りエウル・マリアーナ駅(E.U.R.Magliana)に到着。
エウル・マリアーナ駅から歩く事10分で僕たち家族はローマの新都心エウルの中心部にやって来ました。
E.U.Rは新都心といいますが、1935年に当時ファシスト党首のベニート・ムッソリーニさんが指示して建設されたものです。
僕はローマに来たらなんとしてもE.U.Rが見たかったのです。
ここでフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)監督の短編映画「アントニオ博士の誘惑」(LE TENTAZIONE DEL DOTTOR ANTONIO)が録られたのです。
1962年「ポッカチオ'70」というオムニバス映画の中にフェリーニさんの
「アントニオ博士の誘惑」があります。
映画の概要は、アントニオ博士が見た幻想です。
夜のエウルの街にセクシーな美女の巨大カンバンが立っています。
博士が看板に近寄ると巨大な美女が(身長は10メートル以上)が看板から出現して、アントニオ博士とおいかけっこをするどたばた映画です。
僕はフェリーニさんの「アントニオ博士の誘惑」はまさに神話だと思います。そこがこの映画の大きな魅力です。

2011年10月13日木曜日

ローマの地下鉄、METROPOLITANA DI ROMA

METOROPOLITANA  DI  ROMA 地下鉄路線図
ローマ地下鉄のきっぷ
1990年4月、ローマ地下鉄の路線図です。A線(LINEE"A")、B線(LINEE"B")のシンプルな構成です。
僕たち家族はローマ市内を移動する時はほとんど徒歩とバス。
地下鉄を利用したのは、E.U.Rに行ったときだけでした。ローマ市内は東京のように広くありませんし、せっかく地上が全て博物館みたいな都市ですから移動に地下鉄を使うのあまりにもにももったいない。
ローマの地下鉄の駅はどこも薄暗くてこきたなく、通勤時間帯でないかぎり人はほとんどいません。
1990年当時地下鉄は全線700リラで日本円で120円ぐらい、バスの料金も700リラと同じでした。
地下鉄A線の電車はきっぷと同じオレンジ色の列車、B線の電車はこれもきっぷと同じ水色の列車で車両は外も中もきたない、それに車内は暗くて娘も奥さんも怖がっていました。

2011年10月12日水曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ_6、Villa Hadriana,Canopo,Tivoli

Villa Hadriana,Canopo
娘と奥さんと僕はヴィラ・アドリアーナのカノプス(Canopo)に到着。
ヴィラ・アドリアーナの入り口部分のポイキレ(Pecire)からみると、ここは南の端にあたります。
カノプスとはエジプトの美しい運河の街「カノプス」を再現して造られたそうです。
南北を貫くように、長さ119m×幅18mほどの水路がありそれを囲むように大理石の列柱と彫刻があります。彫刻はどれもギリシャ風で僕たち家族を迎えてくれたのはポセイドンでしょうか。海の神でローマ神話ではネプチューンと呼ばれ、この神様も海や河などを司る水の神です。
僕が不思議と思うに、エジプトの街「カノプス」とはギリシャ風なのでしょうか。
Villa Hadriana,Canopo
娘は水路のはじに体長3mほどのワニの彫刻を見つけて大喜び、まさにアフリカ。
カノプスの脇には小さな展示施設が建っていて、彫刻を見る事ができます。
彫刻はもちろんレプリカでしょうが、なんともざつな展示で倉庫みたい。
Villa Hadriana,Serapeo
カノプス(Canopo)の水路南奥の突き当たりに、セラーピス神殿(Serapeo)があります。
この神殿はエジプトのセラーピス神殿をまねて造られたそうです。
カノプスは夜になるとこの神殿が照明で輝き、それは美しく幻想的な風景が現れるのです。

2011年10月7日金曜日

ティヴォリの花嫁、Tivoli Spose

Villa Hadriana,Tovoli Spose
1990年4月初旬の暖かな春の日曜日、ヴィラ・アドリアーナで娘と奥さんと僕はウェディングドレス姿の花嫁に出会いました。
結婚式を教会で挙げたあとにここに来たのでしょうか。花嫁と新郎、親戚の人と子供たちそれに友達でしょうか、みんな和やかで楽しそう。明るいきさくな笑い声が聞こえてきそう。
僕たち家族はローマのコロッセオでも何組かの花嫁さんと出会いました。古代ローマの遺跡に結婚した二人が詣でる事は、イタリアではどんな意味をもつのでしょうか。
日本人が神社にお参りに行く事と同じでしょうね。古代遺跡は聖地ですから、その場所が持つ特別な力が邪気を払い、幸せをもたらせてくれるのでしょう。

2011年10月6日木曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ_5 Villa Hadriana,Grandi Terme,Tivoli

Villa Hadriana,Grandi Terme大浴場南側

Grandi Terme
娘と奥さんと僕はニンフェウムから小浴場(Piccole Terme)を経由して、大浴場(Grandi Terem)にやって来ました。
大浴場の南側には高さ6mほどの遺跡がありますが建造物の痕跡はほとんどなく、川沿いの土手のよう。この遺跡の上にのぼる事ができるのですが、そこは見晴らしの良い場所で気持ちの良い日差しと風が吹いています。
ここから黄金広場、図書館、ポイキレなどがぐるりと見渡せます。娘はここで、体長15㎝のトカゲを見つけて大喜び、それはきれいな黄緑色とうすいブルーを混ぜたような色のトカゲで、そのからだに太陽が反射して魚のうろこのようにキラキラ光るのでした。
Grandi Terme大浴場天井

Grandi Terme大浴場西側

2011年10月3日月曜日

ティヴォリ、ヴィラ・アドリアーナ_4,Villa Hadriana,Nymphaeum,Tivoli

Nymphaeum,Villa Hadriana ニンフェウム
娘と奥さんと僕はヴィラ・アドリアーナの黄金広場から西に少し歩いて、ニンフェウム神殿(Nymphaeum)にやって来ました。
ニンフェウムとは、泉の妖精であるニンフを祭った神殿です。この神殿の南側に隣接して、小浴場と大浴場があります。ニンフェウムの前には広場があり、ここで運動をして汗をかいたらお風呂に入り、風呂でのぼせたら広場で風に当たり頭を冷やす。
あくまで僕の想像ですが。
Villa Hadriana
ヴィラ・アドリアーナには部分的に約1850年前の床が残っています。
色とりどりの大理石で模様が画かれていました。娘は床の大理石にはまったく興味がありません、柵の上になにやら虫を見つけたようです、てんとう虫でしょうかうまくつかまえられるかな。