2011年7月28日木曜日

ローマの屋台、Bancarella a Roma

Piazza del Colosseo Roma
娘は、フォロ・ロマーノの帰り道、路上で「ジュース、ジュース」を連発、すぐにお店を探しますが見当たりません。
今日はたくさん歩きましたから、娘はのどがかわいたのでしょう。
コロッセオ広場で移動式屋台、バンカレッラ(Bancarella)を見つけ、そこでオレンジジュースを買いました。当時(1990年)ローマには飲み物の自動販売機がまずありません、今でもそうでしょうが。
僕たち家族は、のどがかわいたらバール(BAR)に入って娘はジュース、奥さんと僕はビールを注文して、のんびりするのがつねでした。
バンカレッラはイタリアの屋台のことで、露店式のものや、小型ワゴン車にお菓子や飲み物をたくさん積み込んだ移動式のものがあります。
僕たち家族は、地元のスーパーで買い物する事が楽しみでしたので、いつも屋台はひやかしてばかり、やはり屋台のジュースは値段が高いのです。

2011年7月26日火曜日

ローマ、サクラ通り、Via Sacra Roma

Via Sacra Roma
娘と奥さんと僕は、フォロ・ロマーノでの楽しい一日を過ごして、出口から退場。
出口には、きれいとは言えない、背の高いネットフェンスがありました。
その先にはサクラ通り(Via Sacra)があります。
この通りは「聖なる道」と呼ばれているのですが、古代ローマ軍はたびかさなる戦争で勝利すると、フォロ・ロマーノにあったユピテル・オプティムス・マキシム神殿に、勝利のお礼に奉献するのが習わしであったとか。
なんだか神社の参道みたいですが、この短い通りにはBARもなにもありません。ここは聖なる道、俗世間のおみやげやさんなんぞ、ローマ市都市計画課がゆるさない。
日本なら、軒を連ねてたくさんのおみやげやさんが建ち並ぶ事でしょう。
ローマ市民はえらいな。
娘は喉がかわいたらしく「ジュース、ジュース」そそくさとサクラ通りを後にしました。

2011年7月21日木曜日

ローマ、大競技場、Circo Massimo Roma

Circo Massimo Roma
 娘と奥さんと僕は、チルコ・マッシモ(Circo Massimo)に到着。
チルコ・マッシモは古代ローマの競技場です、この競技場は、パラティーノの丘(Palatine Hill)の南側に隣接してあります。
紀元前6世紀頃から建造され、6世紀頃までたくさんのローマ市民を集めた、大競技場でした。大理石の列柱の基壇部分が並び、柱があちこちにころがっていました。
なんだか建設工事中みたい、現場事務所があってもおかしくない。それにしても、イタリアの建設現場に日本のような仮設の現場事務所 があるのでしょうか、僕の想像ですが、無いのでしょうね、おおらか、のんびり、それでなければイタリア人じゃない。

2011年7月19日火曜日

ローマ、パラティーノの丘、Palatine Hill Roma

Palatine Hill
娘と奥さんと僕は、パラティーノの丘にやって来ました。1990年4月、春の暖かい穏やかな日でした。
僕たち家族だけで、誰もいません。なんて贅沢なんだろう、ローマ皇帝アウグストゥスが住んだところにいるなんて。ここはフォロ・ロマーノから歩いてすぐのところ、ここまで来る人は少ないようですが、フォロ・ロマーノより気に入りました。
クローバーの生い茂る、それは素敵なところです。古代ローマ時代の遺跡の向こうに、ぽつんと1本の松の木が 生えていました。

2011年7月18日月曜日

フォロ・ロマーノ、ティトゥスの凱旋門,Arco di Titus, Roma

Arco di Titus, Roma
娘と奥さんと僕は、ティトゥスの凱旋門にやって来ました。この凱旋門はフォロ・ロマーノの東側、コロッセオに向かうサクラ通り(Via Sacra)に面して建っています。
ティトゥスの凱旋門のわきに小さな泉を見つけました、ちょろちょろと流れ落ちるその泉にはひとけもなく、隠れるようにありました。
僕はこれぞローマの名泉だと思い、娘のどろんこの手をありがたく洗わせていただきました。しかし、この水で腹をこわすのはいやですから、名泉でも飲みません。日本なら、ひも付きの小さなコップが、間違いなくぶらさがっているでしょう。
ティトゥスは79年から81年、在位2年間のローマ皇帝で、42歳で亡くなった人だそうです。彼はローマ市民の評価が高く、神格化された人ですから、彼の死後にこの立派な凱旋門が建てられたのでしょう。

2011年7月10日日曜日

フォロ・ロマーノ、ウェスタ神殿,Tempio di Vesta

Tempio di Vesta,Roma
娘と奥さんと僕は、ウェスタ神殿の前にやって来ました。
ウェスタ神殿は、ローマ神話に登場する、かまどの女神様。ローマ市民の間では家庭の守り神で、ご神体は燃える火だそうです。
古代ローマ時代の神様の多くは、ギリシャの神様の影響を受けています。
もちろん、古代ローマはギリシャ文化がお母さんのようなものですから。
この神殿は、205年頃に建造されたものですが、現存する神殿は部分的にしか残っていません。
神殿の外装は、大理石の列柱が円形に並んだ、きれいでやわらかい女性的な、素敵な建物です。

2011年7月9日土曜日

フォロ・ロマーノ、Foro Romano

Foro Romano
フォロ・ロマーノ入場券
娘と奥さんと僕は、フォロ・ロマーノにやって来ました。
カンピドリオ広場から少し歩けば、小さなチケット売り場に到着。ここで、入場料の5,000リラ(1990年)を支払い(娘は無料)、古代ローマ時代に。場内は観光客も少なくのんびりできます、それでは、ここでしばらく娘とかくれんぼ。
フォロはラテン語のフォルム(Forum)広場の事だそうです、フォーラムもここからきているのでしょう。
この古代ローマ遺跡は、紀元前6世紀頃から290年頃までのものだそうです。古いものは建物の土台だけだったり、小さな柱が2本だけだったり、土の中から19世紀に掘り出された宝物、ゆっくり見て回らないともったいない。

2011年7月6日水曜日

ローマ、カピトリーノ美術館、Musei Capitolini,Roma

Musei Capitolini,Roma
娘と奥さんと僕はカピトリーノ美術館(Musei Capitolini)にやって来ました。
ここは、カンピドリオ広場に面してあるコンセルヴァトーリ宮殿の中庭です。
この場所は鮮明に記憶していました、アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキーさんの映画「ノスタルジア」の一場面にでてくるのです、僕は1984年この映画を有楽町で見たのです。偶然この場所に出くわした時に、僕はなんて幸運なんだろうと、うれしくて、しばらく見入ってしまいました。
ここに並んだ大理石の巨大な頭部、手、足などは、説明書きによると、
コンスタンティヌス皇帝(Constantinus)像の部分品で、完成時には全身の高さが12m以上もある巨大彫刻だったそうです。
僕は頭部、手、足などがばらばらにあるこの状態のほうが素晴らしいと思いました。
すごく幻想的で素敵です。

2011年7月2日土曜日

ローマ、カンピドリオ広場,Piazza del Campidoglio Roma

Piazza del Campidoglio Roma
Piazza del Campidoglio Roma

娘と奥さんと僕はカンピドリオ広場に到着。
ローマの道は表も裏もほとんどが石畳、娘を乗せた安物のベビーカーを押してここを歩きまわると、石のくぼみや目地に車輪がはさまれては難儀します。
そのためベビーカーの損傷がはげしく、いつこわれてもおかしくない状態。そこでベビーカーでの移動をなるべくへらすため、僕たち家族はとにかくバスに乗る、地下鉄に乗る。
宿のある共和国広場からテルミニ駅前のバスターミナルは歩いてすぐ、このバスターミナルはたくさんの路線が乗り入れていますからそれは便利。
バスの回数券は共和国広場にあるタバコ屋さんで買います、10枚つづりで6,000リラ(1990年)当時約1,000円ほどですから、ローマ市内ならどこにでも一人100円で行けます、もちろん娘は無料です。
Piazza del Campidoglio Roma

カンピドリオ広場は16世紀にミケランジェロさんが帝政ローマの元老院のあったカピトリノの丘を整備して造られたバロック風な広場 。
広場中央にはマルクス・アウレリウス帝の騎馬像がありません、当時ここには騎馬像の台座がぽそりとあるだけ。
ローマのバス乗車券


2011年7月1日金曜日

イタリア労働者闘争、Lavoratori Struggle,Italia

娘と奥さんと僕は共和国広場で、このチラシをイタリアのおじさんからむりやり押し付けられて受け取りました。
僕たち家族は、ローマでイタリア人からかならず「フィリピン人」と呼ばれます。
ローマには沢山のフィリピン人が住んでいますから、しかたありません。
当時ローマのフィリピン人は賃金の低いお手伝いさんやビルの清掃などの就業者が多いようにみえました。
1990年4月の事です、ビラに書かれたPUGLIAはたぶんイタリア南部のプーリア地方のことです。
とんがり屋根のかわいい建物のトゥルッリが並ぶアルベロベッロ(Alberobello)に行きたいと思い、イタリアに来る前に僕は図書館でこの地方の事を調べたのです。
残念な事に今回は行けませんでしたが、プーリア地方はイタリアで一番豊かな農産地。
 イタリア語がわからず単語のひろいよみですが、イタリア南部のプーリア地方の農民問題を訴えているようです。
日本もそうですが、農民のおかれている境遇はけっして良くありません。
資本主義は、農民や低所得者労働者の上になりたっているものです。
1960年風に言えば「イタリア北部ブルジョワジーは南部イタリアを征服し、摂取するために植民地化した」まったくの僕の想像上のお話です。